男が一線を退くとき。そのとき妻は…。ノムさん・サッチーの場合
野村の哲学ノート④
■災い転じて福となす――。
そのおかげで、評論家としても評価を得ることができた。
さらには、1990年からはヤクルトスワローズの監督を務めることとなった。そして、1992年のセ・リーグ初制覇を皮切りに、リーグ優勝を4度、ホークスのプレーイング・マネージャー時代には果たせなかった日本一を3度も経験することができた。
その後も、阪神タイガース、社会人野球のシダックス、楽天イーグルスで監督として指揮を執り、今年で83歳を迎える現在もなお、「背番号なき現役」としてプロ野球の世界に身を置かせてもらっている。
もしあのときホークスをクビになっていなかったら、今頃私は何をしていたのだろうか。1988年秋に南海ホークスはダイエーとなり、本拠地を大阪から福岡に移したが、そのとき私の人生にも大きな変化はあったのだろうか。もしかしたら野球から足を洗い、まったく異なる職業に就いていたのだろうか。
所詮仮定の話に過ぎないが、そちらの道に進んでいたら、当然、今の私はなかった。そして、我ながら充実した野球人生を送ることができたことを思えば、ホークスをクビになって正解だったとも言える。
災い転じて福となす――。
裸一貫で東京に向かう自動車の中で沙知代が言った通り、結果的に「なんとかなった」というわけだ。
(『野村の哲学ノート「なんとかなるわよ」』から構成)